この本、読みました。
最初、さらっと読んだ第一印象としては、思ったほどではなかったんですよ。あれ?という感じ。というのも、同じ落合さんの著書「魔法の世紀」をイメージしていたので。魔法の世紀で感じたような、「いままでの『ものの見かた』が、ぐわっと拡げられる感じ」「こんな風に考えている人がいるのか、という驚き」があんまりなかったんですね。
ところが、再度読み直してみると、この本にもやはり、新しい世界の見かたがあったのです。なんと言おうか・・・教育を「教育」という言葉に閉じ込めるな、という感じかな。
教育に力を入れる、というと、学校や塾で勉強を教えるとか、英語やプログラミングを教えるとか、ほぼそういう方向に行ってしまいますよね。そこからもっと意識を拡張しよう、というのが、僕が受け取ったメインメッセージです。
リンゴのたとえが出てくるんですけどね、そこだけ抜き出して書いても伝わりにくいので、私の解釈で書きますと・・・
- 言葉として、記号としてのリンゴ
「リンゴ」を言葉としてだけ捉えていると、単にスーパーに売ってるあれ、というだけで終わります。
- 物理としてのリンゴ
ではリンゴを投げたら?まんまるいボールとどう違う?それはなぜ?(重心とか、空気の流れの影響を考えたり)
- 数学としてのリンゴ
まるいボールとは形が違う?じゃあどんな形をしているの?その形を他の人に間違いなく伝えるにはどう表現したらいい?(数式やデータであの曲線を表す)
- アートとしてのリンゴ
このリンゴをどうしたい?(創造性を喚起させるものとしてのリンゴ。写真に撮りたい人もいるし、リンゴの赤を陶器で表現したい人もいるかもしれない)
リンゴひとつとっても、これだけいろいろなとらえ方があるし、しかも皆、このうちの複数のとらえ方をしてるでしょ。無意識に。
ちょうどうちにも夕べ、リンゴが届いたんですけどね、うちの子は、手に取って重さを感じてみたり、写真を撮ってみたり、丸かじりをしてみたいと言ってみたり。子供は、「リンゴというのは食べ物である」なんて枠にとらわれてないわけですよ。なのに「食べ物をおもちゃにするな」なんて取り上げて、皮をむいて八つ切りくらいにして食べさせてあげたって、そりゃもったいないですよ。子供の可能性を狭めてるのと同じです。
ところが今の教育(特に、今の親世代が受けた教育)は、そういう型にはまった教育だったわけです。それをそのまま子供に受け継いだらダメです。だって時代が変わってるんだから。僕らも教育というものに対して、新しい考え方をインストールしないと。
落合さんは、別に教育の専門家じゃないです。でも、物理学者であり、アーティストであり・・・そういう「落合さんが考える教育」を実践してるわけですね。僕らも教育の専門家じゃなくても、自分たちの頭で考えた教育をやっていかねばならないのでしょう。「すべての分野で一定水準以上の点が取れる」教育では、もう生き残れないのだから。