考察・意見 音楽

ドラッグをやりながら作られた音楽を評価してはいけないのか

ピエール瀧 逮捕のニュースにはとても衝撃を受けた。

たまたまではあるが、先日からぐちゃぐちゃ考えていたことと重なる部分があるので、ここに記録しておきたい。

つまり、ドラッグをやりながら作られた音楽は、評価すべきか否か という話。

僕は電気グルーヴ、ちょいちょい聞くけどコアなファンではない。それにピエール瀧は曲を作っていたわけではない(だよね?)。電気グルーヴ好きな友人から、ピエール瀧は「ピエール瀧」というパートをやっている、と聞いて、それをそのまま信じている。面白いから検証するつもりはない。

まあそんなわけで、この記事では、僕の大好きなoasisをベースとして考えることにする。

とにかく、しばらく前にoasisのドキュメンタリー supersonic を見た。


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そこで、今更ながらoasisが結構ドラッグ漬けであったことを知った。少しは知ってたけど、ここまでとは。それを知って以来、どこかに引っかかっている想い。

ドラッグの助けを借りてできた音楽を、僕らは評価すべきなのか、するべきでないのか

これほど、自分の立場を明確にできない問題も珍しい。

 

■評価すべき という思い

もともと僕には、周辺情報で曲を評価するのはおかしい、という思いがある。
佐村河内氏の時にそれを痛烈に自覚した。

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だから、今回のCD自主回収もおかしいと考えている。誰が書いた曲だろうが、曲の中身以外で曲を評価するべきではない。つまりCDを自主回収するのは、歌詞や曲の中身に問題がある時だ。まあ、ジャケットに問題があるときも仕方ないかもしれないが、それはジャケットを変えて売り出せばいいだけだ。
だいたい何のためなのか、明確にされない自主回収など意味がない。何を自粛してるのかがわからない自粛など、反省の表現にすらならない。臭い物に蓋をしているだけだ。

■評価すべきでない という思い

一方、ドラッグをやった状態でできた曲ってのは、その人の実力じゃねえだろう、という思いもある。松本人志氏が言ってたことに近い。

松本人志「作品に罪はある」ピエール瀧容疑者逮捕によるCD回収巡り - ライブドアニュース

しかしこれも、全面的に賛同はできない。スポーツにおいてドーピングが問題なのは、「他者との競争において公平性を欠く」ことが第一義にあると考えるからだ。もちろんその次に、薬物は選手の健康を害するということもあるけど、健康を害するから使わない と決めているものを一人だけ使えば、ズルができてしまうからダメなのだ。他者との競争ではない音楽において、ドーピングの理屈で考えるのはおかしい。

■ドラッグの使用は助長されるのか

CD自主回収を支持する向きには、「放置していたらドラッグの使用を助長してしまうのでは」という意見もあるようだ。しかしこの点については、僕ら一般人が、助長されることは少ないのではないかと感じる。むしろ、トリップ感のある音楽を聴くことによって僕らは、ドラッグに手を出さずに済んでいる面があると思う。(電気グルーヴの音楽にトリップ感がある/ないという話をしているのではない)

しかし。ミュージシャンは危ない。ドラッグをやることによって、いつもは作れないような音楽を作れるとしたら。素晴らしい音楽を作った人が、その時ドラッグをやりながら作ったのだとしたら。

それを伝え聞いた他のミュージシャンが、ドラッグに手を出してしまいそうになる可能性は、ある。それを防ぐ方法は…“ドラッグをやりながら出来た音楽は評価しない” になるだろう。僕らは、他のミュージシャンがドラッグに手を出さないためだけに、ドラッグをやりながら出来た音楽 を評価してはいけないのかもしれない。

でもやっぱり、oasisの曲はこれからも聴きたい。

■安易な結論に走らない

ちょうど並行して、先日から読み進めていたこの本を読み終わった。

自分がいかにものを知らないか ってことを痛烈に、しかもとても面白く教えてくれる本なので、多くの人にぜひ読んでほしいが、この中で今の気持ちにぴったりする言葉があったので、引用して締めくくりたい。

ファクトフルネスとは…ひとつの視点だけでは世界を理解できないと知ること。
単純なものの見方と単純な答えには警戒しよう。 

ネットでは、わかりやすくシンプルな言論が拡散されがちだ。
それらも取り込んだうえで、僕らは、ゼロイチじゃない答えを追及することを放棄してはいけない。

これからも。

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