書評 考察・意見

身体感覚で論語を読みなおす

数学の独立研究者で、森田真生さんという方がいます。

この方の話はむちゃ面白いのですが、それはまたの機会において置いて。
彼の話を聞きに行った時に、オススメされていた本。

孔子の時代にはまだ「心」という漢字は生まれてなかったのに、
論語には「心」を含む字が結構出て来る。
こりゃどういうことだ、というのを考えて行く話です。

「身体感覚で読みなおす」という主旨に沿って、
僕も噛みしめるようにゆっくりゆっくりと読んだのですが、
正直、半分も理解できてないです。

いや、文章は非常に平易なので、難しくて理解不能というんじゃないです。
深く広い教養をベースに書かれているので、
ただもう「へえ〜」って聞くしかないというか。
自分なりの感想とか湧いてこないんですよね。

それでもかなり面白いです。
といっても伝わらないので、少し引用。

「惑」という漢字は孔子の時代にはまだ誕生していません。
となると孔子自身は「四十にして惑わず」とは言わなかった可能性が高い。
では、孔子は本当はどう言ったのか、そしてそれはどのような意味になるのだろうか。

どうでしょう?
思わず引き込まれますね!!

って力説するとたいがいの友達には引かれます。
けど、まあ事実として今まで論語なんてかすりもしなかった僕が
これだけでこの本買うのを決めちゃいました。

自分なりの感想まで持ててないのですが
あとちょっと感じたこと。

この孔子の時代ってのは、今よりも、文字というものが実感を伴っていたんじゃないか。
現代は文字が記号化し過ぎて、意味もシンプルになり過ぎている。

例えば教えるという字。

この「教」の右側のつくり、「のぶん」はムチを持った手のことだそうです。
へんの「孝」は、生徒が真似をする様子。
だから「教」という字は、
先生と同じようにできるまでビシバシ打たれてやる厳しい稽古、
といった身体感覚もともなっていたわけです。
痛そう…。

今でこそ、教えるとは、コーチングだとかティーチングだとか
どこまで教えるのが良いのかとか言いますけど、
このもともとの痛みを伴う感じを皆が知ってたら、そもそもそんな議論にならない。

なんか文字(漢字)が本来の意味を離れ、記号化しすぎちゃってる。
それが悪いことかどうかなんて、意味のない話だけど、
本当はもっと分厚い意味があったんだ、ってことは知っておいてもいいかもしれません。

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